茅の輪を腰に ― 2021年06月04日 18:15
植垣節也校注『風土記』小学館には「逸文備後の国」がある。その中で速須佐雄(はやすさのを)の神は「後の世に疫病(えやみ)あらば、茅の輪を以ちて腰に着けて在(あ)る人は、免(まぬか)れなむ」と言う。6月末における茅の輪くぐりのルーツだ。そこで提案、東京五輪開催の場合、日本選手団はコロナ退散の象徴である茅の輪を腰に着けて入場行進したらどうだろうか。
陶淵明「形影神、神釈」 ― 2018年01月30日 19:54
松枝茂夫、和田武司訳注『陶淵明全集(上)』岩波書店、1990に次の詩がある。
甚念傷吾生 甚(はなは)だしく念(おも)えば吾(わ)が生(せい)を傷(きず)つけん、
正宣委運去 正(まさ)に宣(よろ)しく運(うん)に委(ゆだ)ね去(さ)るべし。
縦浪大化中 大化(たいか)の中(うち)に縦浪(しょうろう)し、
不喜亦不懼 喜(よろこ)ばず亦(ま)た懼(おそ)れず、
應盡便須盡 応(まさ)に尽(つ)くべくんば便(すなわ)ち須(すべから)く尽(つ)くべし、
無復獨多慮 復(ま)た独(ひと)り多(おお)く慮(おもんばか)ること無(な)かれ。
あれこれ思いつめるのは、かえって自分の生命をそこなうことになる。いずれも適当に運にまかせたほうがよい。
人生の大きな変化に身をまかせてただよい、喜ばずまた恐れず、この生命が尽きるものなら尽きるでよい。いまさらくよくよ思い悩むのはよしにしよう。
喜ばずは「愛好せず」の意と思われる。とすれば、人(余)生運にまかせ、思い悩むなとの託宣。若い人ではこうはいかないのかも知れないが、余生を生きる私にとっては心強い人生訓だ。
大都市中心ポピュリズム政党に希望は無い ― 2017年10月01日 09:35
何!東京、大阪、愛知の3都物語。旧通産省の国策で、地方の人材は東京、大阪、愛知へと取込まれた。即ち、生粋の東京、大阪、愛知生まれの人は現在の2割位であろう。その3都が地方の恩義を忘れ、地方を軽視し、日本を牛耳ろうとは何事か!大都市中心ポピュリズム政党に希望は無い。
兼六園の呼称 ― 2016年11月30日 19:36
最近、長山直治氏追悼集刊行委員会『加賀藩研究を切り拓くー長山直治氏追悼論集』桂書房、2016が上梓され、本康宏史「兼六園の呼称をめぐる若干の考察」が掲載され、新しい知見が論述されています。紹介しよう。
先ず、「兼六園」の名の由来は奥州白河藩主松平定信が、北宋の詩人李格非の『洛陽名園記』における「園甫の勝、よく兼ね能ざるもの六あり。宏大に務むれば幽遂少し、人力優れば蒼古少し、水泉多ければ眺望難し」から「兼六園」と命名し、扁額に揮毫したことになっていた訳です。ところが、松平定信は扁額を揮毫する時、「兼六というのはどういう由来なのか」と聞いたそうで、名付け親ではないとの事。それでは、名付け親はというと、京都の公家、斉広(12代藩主)夫人真龍院の実家である鷹司家の人物らしい。
又、「兼六園」と命名された庭園は竹澤御殿に付随する「竹澤御庭」のことを指していた。「竹澤御庭」は霞ケ池から南側雁行橋の辺りです。
更に、「蓮池庭」を含むエリアが一般に「兼六園」と呼ばれるようになったのは、明治期の庭園解放後である。「蓮池庭」は百閒堀に面した蓮池門の辺りです。
竹澤御殿が撤去され、園池がほぼ今日見られるような形になったのは、天保八年(1837)頃、斉広没後ほどなくして、次代の斉泰(13藩主)が御殿を解体しつつ霞ケ池を拡張し、その掘り下げた土を盛って栄螺山を築いたあたりからである。
とのことです。
Earth Day Kanazawa ― 2016年04月22日 18:18
「森に木」を。Earth Day Kanazawa!
最近のコメント